反骨と異端

アウトローは文化だ

木辻の昔話・喧嘩=寮美千子 /奈良

 

 

前回は、遊郭の並ぶ色町だった戦前の奈良市東木辻町の話を、川端俊夫さん(91)にお伺いした。きょうはその続編だ。

東木辻の坂道は、1935(昭和10)年ごろまでは、石段のある独特の造りだったという。遊郭の玄関の前は水平な土の踊り場なのだが、その間をつなぐ坂道は、石段と石畳だった。

 

「両脇は人が歩くように幅一尺ほどの狭い石段でした。その内側に人力車が走れるようにと、細かい石で舗装した坂道がありました。これも幅一尺ちょっとあったと思います。そして、その内側、つまりまん中には、大きめな粗い石が敷かれていました」と川端さん。

 

自動車が普及して、タクシーで遊郭に通うお客がいたために、昭和10年以降は階段はなくなり、ピンコロと呼ばれる四角い敷石を一面に敷き詰めた坂道になった。ちょうどタイヤの幅に敷石がくぼんでいたそうだ。アスファルト舗装になったのは、1985(昭和60)年ごろ。

「地元では反対の声もありましたが、水道管などの修理のたびに大変なので、結局、舗装に。石畳のほうが風情があったんですが」

 

子どもの頃、夕暮れになると決まって喧嘩(けんか)騒動があった。それが忘れられないという。

 

「だれかが『喧嘩だーっ』と叫ぶと、子どもも大人も男も女も、みんな飛びだしてきて見物をするんです。喧嘩をしているのは遊郭に来たお客さんとヤクザ。ヤクザがわざとぶつかってきて、『どないしてくれるんや』と、難癖をつけるんですよ。見物人に囲まれてしまうから、お客も逃げられない。みんな口々にはやし立てました」

 

ボクシング観戦でもしているような騒ぎだったようだ。

 

「『おっさん、後ろ後ろ。気ぃつけや』なんて見物人はお客の味方をするんです。でも、ヤクザは見物人には決して手を出しません。お客は、みんなに注目され、だんだんばつが悪くなってきます。

 

そんな頃合いを見計らって、兄貴分が登場。『だんなはん、まあ待ちなはれ』と仲裁に入っていると、折よく『おまわりが来よったでぇ』と声がする。すると見物人がサーッと引き、そのどさくさに、ヤクザはお客を坂の下の角を曲がったところにある小屋に連れこんでしまうんです。

 

そこは、土間しかない物置のような場所で、椅子があるだけ。そこで、ヤクザの兄貴分と子分たちに囲まれて、お客は仕方なしにお金を出して解放してもらう、という寸法です。それが毎日でした」

 

喧嘩は町の娯楽でもあった。坂の上の辻には交番があって、巡査も事情はわかってはいたが、小屋までは深追いしなかったそうだ。

 

「それでも、たまに捕まって、交番の南側にあった留置場に入れられるお客さんもいました。喧嘩をしただけなので、明け方には釈放されて、そうっと帰っていきました」

そんなセピア色の映画のような景色が、戦前から戦後の赤線廃止まで続いたという。タイムマシンがあれば、行って見てみたい。

 

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